22才の頃に
「一度目の無一文」を経験した僕は、
その後自殺未遂をするに至りました。
結局助かってしまった僕でしたが、
もうすでに「稼ぎのネタ」を失ってしまっていたため、
もはや普通の22才・・・
いや高卒のフリーターであることを考えると、
「普通以下の22才」からの人生やり直しとなりました。
そこからの数年間は
特筆するような仕事はしていませんでしたね。
それこそ赤帽のような軽トラックの運転手とか、
「特段のスキルや経験不問」の仕事ばかりしていたんです。
あ、軽トラ運転手の際は、
それまでポルシェに乗っていた僕でしたので、
高校時代の友人などからは、
超絶に笑われ、バカにされていたようでした(苦笑)
多くの友人は大学に通っていた中、
高卒で自力で商売し、ポルシェを購入した僕に対し、
元々「鼻持ちならないヤツ」って感じで
かなり嫌われていましたので。。。
「バッカなやつ!」
「ざまぁ〜みろ!」
多くの連中にこのように言われていたことは
僕自身の耳にも届いていましたが、
正直「バカ」は本当のことでしたし、
当時の僕はまだ、
「今に見てろよ!」という反骨心が
芽生えるほどの元気もなかったんです。
そんな中、25才になった頃、
チンタラ生きている僕を見かねた義理の兄に勧められ、
とある金融会社に就職をしました。
いや、「させられた」かな・・・
ちなみに金融会社って言っても、
いわゆる「ノンバンク」でして、
レベル的には『街金』と呼ばれるそれでした。
マンガで『ナニワ金融道』って作品があるのですが、
ご存知の方はいるでしょうか?
まさにあんな感じの会社でしたね。
※ネットでの画像検索から引用
僕も大好きでかなり読みこみました。
ついでに作者の「青木雄二氏(他界)」の書籍も
ほとんど読んでいます。
僕の入社は1990年ですので、
バブル経済がハジける「ホンの少し前」でした。
そのため入社時点では
不動産担保ローンがメイン商品で、
僕は当初担保不動産の査定をする部署に配属されました。
「リファイナンス」という、
お客に貸す金を借りる銀行(ややこしいですよね・笑)
などに向けた不動産の調査報告書を作成するため、
多くの平日は物件調査と役所や不動産会社回りをし、
夕方に会社に戻ってはせっせと報告書を書いていました。
幸い、文章を書くのが嫌いではなかった僕の報告書は
各所でそこそこ高い評価を受けるようになり、
このあたりから徐々に「自信」が復活してきたのを覚えています。
その後、ほどなくしてバブル崩壊・・・
僕の勤めていた金融会社も
不動産担保ローン一辺倒から大きく舵を切りました。
一件数千万円の融資はほとんどしなくなり、
代わりに消費者金融やキャッシングで返済に困窮した「個人」への
『おまとめローン』がメインとなりました。
これ・・・「おまとめローン」なんて言うと、
なにやら聞こえが良いかも知れませんが、
要するに『保証人付き融資』だったんですよ。
当時は年収300万くらいのOLでも、
サラ金10社で合計500万円とか借りれた時代で、
信販系のキャッシングなどを合計すると、
借金総額1000万以上・・・
なんてことも珍しくなかったんです。
オマケにほとんどのサラ金が
年利29.2%かそれ以上でしたので、
そんなもん、普通に考えて返せるワケないですよね(苦笑)
で、そういった人たちが
世の中にウジャウジャいた時代でしたので、
この「おまとめローン」はかなりのヒットとなりました。
ただし・・・
そのロジックは↓こうなんです。
借金を繰り返す多重債務者はある意味「病気」で、
治ることもなく、また自力での返済など出来っこない。
だから連帯保証人に返済してもらう・・・
↑こういう考えに基づいたモノでした。
で、実際のところこの「おまとめローン」、
本人による完済比率は5%もなかったですね。
そのほとんどが保証人による返済か、
あるいは親族の代払いによる一括完済でした。
さて、
ちょうど同じころ、
かねてから人前でも物おじせずに喋れる僕に対し、
「お前、絶対営業やれるだろ!」って社長の一言で
僕は不動産調査部から新規営業の部署へ異動させられました。
イヤでしたねぇ、正直。
だって僕が直接やりとりしている「お客さん」は、
実は「真のお客」ではないワケですよ。
真のお客は、申し込み者が上手いこと言って頼み込んだ
「連帯保証人」のほうだからです。
ある案件で僕が保証人になる人のサインをもらうため、
千葉県の成田方面に行ったときのハナシなんですが、
保証人さんが住むマンションのすぐ近くに、
「身代わり不動尊」という大きな看板があったのが
僕には『身代わり不動産』にしか読めませんでした。
その足で保証人さんの家にお邪魔し、
契約書類に滞りなく署名捺印をしてもらう僕を、
僕は正直好きではありませんでしたね。
資本主義の無情、契約社会の無情を
痛いほど思い知らされたのがこの時期です。
ただし、元々の僕はバカがつくほどの博愛主義者で、
それこそ「人間誰でも話せば分かってくれる」
的な感覚でもいましたので、
社会勉強という意味では、
大いに勉強させられた時期だとも思っています。
※けど、その後も「バカ」は治らず
さらにこのあと5回無一文に転落するワケですが(汗)
ちなみにそんな僕ではありましたが、
営業成績自体は良好で、
30人くらいいる営業部の中で
常にトップ争いをしていました。
おかげ?で給料もそれなりに上がり、
入社5年目のちょうど30才の頃、
今のカミさんと結婚するに至るのでした。
まさかカミさんはこの時点で、
このあと5回も僕の無一文に付き合わされることになるとは、
夢にも思っていなかったことでしょうけどね(笑)
結婚後、ほどなくして僕は
サラリーマン生活に終止符を打つのですが、
そこから「2度目の無一文」に向けてばく進します。
詳しくは次号でお話をいたしますが、
なぜサラリーマンを辞めたのか?についてだけは
少しだけ触れさせておいてください。
金融会社って、早い話「金貸し」ですよね。
で、社内では「お客さん」のことを
『債務者』って呼んでたんですよ。
書類でも「お客様名」ではなく
『債務者名』という記載でした。
イヤな世界だとは思いませんか?
仮にも「お客」である人に対しての
尊敬の念がまったくないことが、
僕の中では常に大きな違和感だったんです。
社内でお客さんを「さん付け」で呼ぶことはなく、
逆にいうと「さん付け」で呼ぶのは
本人の前だけ・・・そんな世界でした。
経理部や業務部などの女性社員は
そのほとんどが20代半ばの、
言ってみれば「小娘」ばかり。
そんな小娘が「お客さん」を「債務者」と呼び、
オマケに「さん付け」もせずに呼び捨てで呼ぶ・・・
僕はいつもこう思っていたんです。
「金貸しってそんなに偉いのか?」
「てか、そもそもお前のカネ貸してるワケでもねえだろ!」
上司も同僚も、あるいは部下ですらも、
信じられないくらいに業の深い人間が多い職場でして、
それでいて皆『本音と建て前』の使い分けは恐ろしく上手でした。
その場にいない上司の悪口は
人格全否定くらいの勢いでするくせに、
けど、その上司の前では
これでもかというくらいに
オベッカを使いスリ寄る・・・
僕は「営業部」にいたワケですが、
『みんなは一体誰に対して“営業”してるんだろ?』
皮肉しか感じない時間を繰り返す僕は
本気で「辟易する毎日」を過ごしていたんです。
「もう辞めた!」
たった5年半のサラリーマン人生でしたが、
僕からしたら「よく5年半も持ったな」が本音です。
退職した日の夜、
僕は白と黒のネクタイを2本だけ残し
それ以外すべてのネクタイを捨てました。
「もうここには絶対戻るものか」
その後、
5度も無一文に転落する僕ではあるのですが、
このときの“誓い”は今でも僕の中で脈々と生きています。
「今に見てろよ、この野郎」
このとき30才。
僕のギネス記録級とも言える「無一文物語」が
本当の意味で始まった瞬間でした。。。
※以下「二度目の無一文バナシ」へ続きます。
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第四話 二回目の無一文
凄まじい世界ですね。自分では出来ない(したくない(・_・;))社会勉強になりました。
貴重なお話を有難うございます。