第0話「再び運命の地シンガポールへ」

2020年3月

私はシンガポールのチャンギ空港に着いた

「ああ、何年振りだろう」

独特の懐かしい熱気を味わいながらタクシーに乗り
「スイソテル・スタンフォード!」
と、シンガポールでの定宿を運転手さんに伝えた

(また…シンガポールとは…)

まさか、新型コロナウイルス感染拡大による相場の大変動の直後にシンガポールに来る事になるとは…

ホント因果なものだ

私、そしてシンガポールと相場の組み合わせ
この三角関係は相場の節目で度々交差する

 

1回目は2008年の秋

記念すべき第1回目のF1シンガポールグランプリが開催されるため、ある投資銀行の招待で私はシンガポールに滞在していた

F1シンガポールグランプリはF1では唯一町中を走るナイトレースという事で多くの外国人がシンガポールを訪れ、まるでお祭り騒ぎの様だった

だがその晩、世界中の株式市場が震撼した
世界中の株式市場で大暴落が起きた
後にリーマンショックと呼ばれる金融危機だ

この前週の9月15日に米投資銀行大手リーマンブラザーズが連邦破産法第11章を申請し経営破綻。
その影響が株式市場に大きく顕在化した瞬間だった

私はミーティング(という名のバンカーの夕食までの暇つぶし)のため、その投資銀行の会議室にいた
前日のリーマンショックの話題で持ちきりだった

だが、その後のショックのイメージとは異なり、勃発時はまだ皆楽観的で笑顔で会話ができていたし、夕食のメニューの心配の方が大きかった気がする

残念な事に、その会議室にいた人たちの殆どが、その当時の職を失う事になろうとは
その時誰も知る由が無かった

 

2回目はリーマンショックから7年後の2015年

当時シンガポールに在住していた「伝説の相場師」との運命の出会い

その出会いの後、私は40歳手前で転職をし天職に就くことになった

激動の昭和を生き抜き、平成、令和と、相場と対峙し続け、全世代の大相場をことごとく仕留めてきた生きる伝説H氏との出会いは、私の人生においてとても大きな出来事となった

 

そして3回目である2020年3月

NYダウは
3月9日に7.79%下落
同12日に9.99%下落
更に同16日には12.93%下落し
後にブラックマンデー2と呼ばれた

所謂コロナショックである
そんな時、私はまたシンガポールに来ていた

既に香港からシンガポールへのフライトの最中に

(きっと今回も何か大きな動きになる、相場だけじゃなく私にとっても)

と確信していた

 

数週間前
私は香港のフォーシーズンズホテルでシンガポールから来たMr. Tと友人のボブ(日本人だがニックネームだ)と3人で会食していた

当時私は香港に移住して7年が過ぎようとしていた頃だ、ボブは私が香港に移住して以来、香港での唯一の友人だ

ボブとは従事する業界が物凄く近かった事もあり、色々相談したり週末酒を飲みに行く仲だった

ある日、そんなボブから連絡があり
「Kさん、ごめん。実はKさんの為替レポートを私の旧知の友人に勝手に転送しちゃったんだけど、その友人がどうしてもKさんに会いたがってる、会ってみない?」

唯一の友人のボブからの話だったので私は快諾した

 

数日後の週末、ホテルのラウンジでMr. Tと挨拶をし、上の階にある鮨屋に入った(よく予約取れたな…)
日本でも超がつく有名店だ、勿論香港でも予約はそう簡単に取れる店ではない

Mr. Tは為替を中心としたあるコミュニティ運営の中心メンバーのひとりだという

レポートのソースや取引手法の事を事細かに聞かれた
この頃になると既に私の取引手法に興味を持ち話を聞きに来る方は結構いた
正直面倒な思いもあったが、ボブからの紹介だったので安心して話ができた

Mr. Tは礼儀正しくよく話を聞く男だったので、印象はかなりよかった
(なんか、いい奴だな)
そう思った

結局、レポートや手法を世に出せないか?
という話まで進んだ

私は原則、私の手法を人に教える事はしないと考えていた
理由は(そのうちご理解頂けると思うが)
多くの人達が知ればその価値がなくなる手法だということ

それと、どうせ多くの人に受け入れられる手法や理論ではない
そう考えていた

だから、いい奴のMr. Tが私の取引手法を世に出して恥をかかないよう
K: 「Tさん、多分流行らんよこういうのは、大半の人を敵に回す」
Mr.T 「いや、いいんです流行らないのもいいんです、大丈夫です」

元々ボブからの話だったので、なんでもイエスと言うつもりで来た

勿論、私は高い鮨に釣られた訳では無いが、簡単に予約の取れない店をシンガポールから週末に来てポンと予約を取るあたり色々コネクションがあるんだろうな、シッカリしたビジネスマンなのだろう

(彼が大丈夫と言っているので…まあ、いいか…)
そんな感じでその日は別れた

 

翌週、私はシンガポールへ出張の必要ができた

友人がマレーシアのパームオイル取引の会社をシンガポールに設立するので(シンガポールとマレーシアは隣同士の為、この手の会社の本社機能を金融ハブであるシンガポールに置くことは結構多い)為替のアドバイザーとしてメンバーに加わって欲しいとのオファーを受けた

そのためアドバイザー契約を完了したいので、現地シンガポールの弁護士立ち会いの元サインアップを完了して欲しいとの事だった

(シンガポールか…)

その当時になると私のシンガポールコネクションは大分減っていたので、他に用事も無いためMr. Tに連絡を取った
K  :「Tさん、先日はお世話になりました、来週シンガポール行きますがいます?」
Mr. T:「勿論います、私が一緒にやっている仲間を紹介したいので滞在中まとまったお時間を頂けますか?」
K  :「はい、勿論」

その直後にコロナショックによる相場の大変動が起こった
私の周りでも被弾したトレード仲間は多かった、そのため沢山電話もメールも頂いた
そのさなか、私はシンガポールへ向かうため香港を後にした

同時に、私の手法が「マイノリティストラテジー」と名を戴くまでの物語が始まることになる。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

1976年生まれ、香港在住。 米国のアルゴリズムトレード格付け機関で分析を学び、30歳で金融機関向けコンサル法人を設立。ディーリングシステムやリスク管理、M&Aを手掛ける。その後、為替を中心としたヘッジファンドを創設し、英国で日本人独立系として初のFXブローカーライセンスを取得。3年半でバイアウト後、世界を旅するトレーダーとなる。現在は香港在住で愛妻・愛犬と暮らしつつ、FXブローカーやヘッジファンドへのコンサルを提供し、幅広い金融人脈を持つ。